このすばらしい作品の著者に敬意を表します。この宗教的なフィクションは、イエス様に対する感謝の愛に震える私の魂琴線に触れました。「イエスの涙」の内容は、私の人生、そして私が追い求めてきた真のキリストと彼の人生、彼の心情に共鳴します。私は自分の人生の中でキリストを見つけました。そしてそうです、この作品の中に、私は真のキリストと彼の体としての教会を見出しました!
イエス様を慕い続けてきた人々が「十字架嫌悪シンドローム」に冒されます。彼らは十字架を破壊しますが、イエスの体には手をつけません。
日本のカトリック修道女にイエス様自身が現れ、彼女に打ち明けます。「私は誤解され続けてきたが、あなたに私の心情を理解してほしい」。ストーリーはキリスト教の信仰の核心を再考慮させるように展開します。最愛の息子を地上に送り十字架上で死なせ、人類の罪を贖うこと、それが神の究極の計画だったのだろうか?と。
このような難しい問題を提起することにより、世界中何百万という人々の信仰に疑問を投げ掛ける勇気を持った作者ピーター・シャビエル氏に賞賛の意を表します。
作品は非常に丁寧に組み立てられており、私自身、読み進むうちに、書かれていることの真偽を何回もインターネットで確認しました。この小説のすべてのトピックは、キリストの使命と彼の地上での人生に関連し、それには彼の「非嫡出」な出生、苦難に満ちた青少年期、ゲッセマネにおける弟子たちの裏切りだけでなく、栄光のイエス様が子羊の婚礼の晩餐で、王の王としてどれほど輝くことができたであろうか、ということまでも含まれます。
私は、イエス様の聖心を崇めるフランスのカトリックの家庭で育ちました。私は信心深い祖母に伴いパレ-ル- モニアルやいろいろな聖地を巡礼しました。イエス様の真の心情の啓示はイエス様の聖心の啓示の現代版として提示されているため、私には抵抗無く受け入れられるものです。
シスター・テレサと同じように、私も5歳のときイエス様と涙の出会いがありました。クリスマスも近いある晩、家族揃って飼い葉桶を囲んで祈祷しているときに、突然涙が流れ始めたのです。
「彼は何も悪いことをしなかったのに、どうして殺されてしまったのだろう?」
母が私を慰めようとしてくれたのをはっきりと覚えています。でもそれは無駄でした。
若かった頃はずっと、教会が私の家でした。私は心からイエス様を愛していました。毎年クリスマスの週にはよく泣きました。私のために命を捧げたそのお方の悲しい定めのために。
長きに渡りイエス様から多くの愛を受けた後、私は15になりました。その頃同じ疑問が再び頭を擡げてきました。イエス様は、本当に死ぬために来られたのだろうか、それとも人を愛することを教えに来られたのだろうか?
それから数年間悩んだ私の魂は、孤独な夜をさまよい、飽くことなくその問題に対する解答を求め続けました。そしてイエス様の導きにより、私は信仰の核心にたどり着いたのです。死ぬために来られたのではなく、愛することを教えるために来られたのだと。清き涙の世界で結ばれた心に、キリストは私に呼びかけたのです。そして私は燃えるような感謝の心を持って、私の人生を彼に捧げる決意をしました。
この本の特徴は、謙遜、誠実、悔い改め、祈りに満ちていることです。改悛の情を持ってシスター・テレサは告白します。「イエス様が本当に感じていたことを、私自身は理解することができませんでした」と。
シスター・テレサとイエス様との強い心の結びつきに、私は深く感動しました。どのようなことがあろうともイエス様の心情を証かそうと命を捧げていくときに、彼女はイエス様の目から流れる涙を感じるのです。「心の清きものは幸いである。彼らは神を見るであろう!」
イエス様は来るべき地上の神の王国を宣言します。そしてシャビエル氏の文章により、その神の国が本来我々が求めてきた真実なものであり、良心に基づき愛に満ちた暮らしが可能なところであることを感じることができるのです。素晴らしい……。
自らの信仰に疑問を投げ掛けることを恐れぬキリスト教の聖職者たちは、信仰とイエス様の心情との結びつきを保ち続けようとします。キリスト御自身より召命され使命を果たす人々は、命がけでイエス様の本当の心情を証していくのです。
教皇様の勇気に感動して、他の宗教を持つ人々も祈りを捧げます。そのような捧げられた心情の基台の上で、イエスの涙が奇跡を起こします。
我々がイエスの涙を流すとき、この世界の復活を見るでしょう。教皇パックス1世は確約します、「神様とイエス様の真情を求めて行けば、奇跡が起こることでしょう。そうしてゆけば、人類に平和で幸せな世界が訪れるでしょう」と。
これこそが2013年の我々の世界に対する、神様の心からの願いではないでしょうか?