指揮者の『イエスの涙』レヴュー

指揮者の三澤洋史さんの『イエスの涙』書評です。

イエスの涙

妻が教会の信者さんから借りてきた本があった。何気なく「イエスの涙」というタイトルが目に入ったので、手にとってパラパラとめくった。たすきにはこう書いてある。

 

自らの意志に反して、十字架を見ると吐き気を催す修道女。その苦悩の中で、イエスは彼女に語りかけた。
世界中で起こりはじめた「十字架嫌悪シンドローム」に秘められた究極の誤解とは何か?!
『ダ・ヴィンチ・コード』よりもセンセーショナルなキリスト教のテーマを扱いながらも、一人ひとりの心に深く訴えかけてくる。

妻は、これを寝る前のベッドの中でのひととき読むのを楽しみにしている。でも僕は妻が読み終わるまで待てない。そこで、昼間は僕が仕事に持って行き、夜になると彼女に渡した。

彼女は布の紐のしおり、僕は挟み込みの紙のしおりを使って、読み終わりの場所を区別した。ところが読み始めてみると、僕にとってはとてものんびり読んではいられないテーマだったので一気に読んでしまった。

ピータ・シャビエル著「イエスの涙」Tears of Jesus(アートヴィレッジ)は、サスペンスロマンのタッチで書かれた小説だ。この小説の中に出てくる枢機卿やローマ教皇は架空の人物である。しかし、 そこで扱っている「十字架嫌悪シンドローム」は、現在世界各地で似たような現象が起こっている事実であるという。

それはどういうことかというと、特に信仰の厚い信者に起こる事だが、ある日突然、十字架を見て吐き気を覚えたり、嫌悪感を覚えたりするそうで、極端な場合には、その信者によって十字架像が破壊されたり燃やされたりする事件へと発展するそうだ。

それらの信者に共通する事として、十字架を嫌悪するとはいっても、イエスに対する嫌悪を意味するものではないということだ。むしろ全く逆で、かえってイエスへの深い愛から、あるいはイエスの悲しみへの共感として、そのような現象になるということなのだ。

では何故十字架を嫌悪するのかということだが、それはつまりこういうことである。カトリック、プロテスタントを問わず、教会はこれまで次のような教義を掲げて布教してきた。

イエスは人類の罪をあがなうために、自ら進んで十字架にかかり犠牲の死を遂げた。
すなわちイエスは「十字架にかかるために」この世に来た。
そして我々は「十字架にかかったイエス」を信じる事によって罪から「救われる」。

ところが「十字架嫌悪シンドローム」の人達はそれに真っ向から反対する。彼らは時にイエスの幻を見、声を聞き、あるいは祈りの中でイエスの想いに到達 し、こう結論づけるのだ。イエスが十字架にかかったのはイエスの本意ではなかった。だから十字架を肯定的なものとしていたずらに美化し、あがめないで欲し い。

この本を読み進めていく内に、この小説で扱われている問題は、これまで僕がずっと思い続けてきたことと完全に重なり合っていると思った。僕はクリスチャンになった最初の頃からイエスの十字架は、イエスの本意ではなかったと思っていたのだ。

誰に教わったわけではないが、ごくごく自然にそう信じていて、受難曲を演奏する合唱団の練習の時など、いろんな機会に繰り返し述べていた。最近では「ヨハネ受難曲」講座でもその事に触れている。
だがこの本でも触れているように、それは教会的に見ると異端的な考えだったのだ。だからこの小説のように命を狙われたり異端審問を受けて火あぶりにされたりしても不思議はなかったのだ。

勿論、現代において教会はそこまで法的拘束力を持たないが、少なくとも僕のホームページを読んで「けしからん」と思った教会上層部が僕を呼びつけて始末書を書かせるくらいのことはあっても不思議はなかったのだ。

僕はイエスという人間が好きだ。日曜日にも教会に行かないし、あまり真面目なクリスチャンとも言えないのだが、イエスを愛していることだけは自信を持って言える。だから僕はクリスチャンになってから基本的にイエスだけを見つめてきた。

イエスの何処が好きかっていうと、生き方が好きだ。まっすぐで妥協しない。自らの利益を求めず、他人の幸福を願う。無償の愛に溢れ、虐げられた人達と共にいる。

一方、身の危険を分かっていながら、真実を伝えるためにあえて敵陣のまっただなかに乗り込んでいく。けっしてブレない。まさに完璧な人間だ。こんな人でありたいと僕はいつも思って生きてきた。

イエスをまっすぐに見つめていると、イエスの心情が伝わってくる。特にイエスの悲しみが。イエスの無念さが。最後の晩のゲッセマネの園での悲痛な祈り が。眠り込んでしまった弟子達に対する失望の念が。十字架上での「我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか?」の叫びが・・・・・。

十字架を救済のシンボルとして掲げて布教していった聖パウロをはじめとした初期キリスト教徒達を間違いだというつもりはない。

でも、イエスが「十字架につけられるためだけに」この世にやってきて、我々の罪を担ってくれたので、我々はそれを信じさえすればいいんだよ。信じた?信 じたね!ジャジャジャーン!おめでとうございます。たった今あなたは救われました!それでは天国行きの許可証を差し上げます。これからはどんな生き方をし ていたって天国に行けちゃうんだからね。イエスを信じてさえいればいいんだから。楽ちん楽ちん。こんないい宗教ないよな。天国よいとこ一度はおいで~酒は うまいし、ねーちゃんはきれいだ、ウ~ワ、ウ~ワ、ウッワッワ~!と左うちわで極楽極楽!(ネタが古いねえ)という考え方には、イエスの心情に思いをはせ る限り、僕にはどうしても賛同できないのだ。

そんなわけで、この本は僕にとっては決して目新しい考えではない。先日も掲示板で「十字架は負の世界遺産」という話が出て、その言葉を気に入った僕は、 ヨハネ受難曲講座でパクったわけだ。でもね、この小説の中では、そうした考えを持つ人が保守派から命を狙われたりするわけだから、実は教義の壁は、僕が想 像しているよりはるかに厚いのかも知れない。

結論はすぐに出るような問題ではない。でも興味のある人は一度読んでみてください。ちなみにバッハは、受難曲で使っているテキストを読む限り表面的には 保守的な見解に属しているのだろうが、彼が音楽中で表現しているものは全く違う。彼は真の芸術家だから、芸術の中のバッハは真実を無意識のうちに探し当て るのだ。詳しくは僕のヨハネ講座をよく読んでね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

Please publish modules in offcanvas position.